逆もまた真なり(ジミの気持ち2)


それからどした?

前回数字逆並びノブを見つけて、よっしゃよっしゃ後は配線の右左をひっくり返せば良いのじゃ、Yes, I know
なんちゃってやってみたらおや?volumeをいくら絞っていってもほとんど下がらず、toneをいくら絞っていっても変化せず、で、目盛り1とか2になってやっと音量がすとんと、音質がモコッと変化すると言った塩梅で、早々音楽問屋は卸してくれなかったというお話でした。

ソリッドギターの小さな弦の振動からアンプリファイされた音を作り出す=言ってみれば無から有をつくり出す(チョット違うか?)とは、やはり一筋縄では行かぬものなり。
何故ならそこにはインターフェイスという境界面、面というか空間、というか、人とギターの間には、想いがなかなか伝わらぬ時空の奔流がそこに横たわっているのであ〜る。
イイぞイイぞ、呑んでもないのに風呂敷広げたねぇ。

Volumeやtoneに使われる可変抵抗器=ポット=potentiometer(”ポッド”ではありませんぞ)には、その抵抗値がゼロ(volume,tone全開)から最大値(いちばん絞った状態)に至る変化の度合い(カーヴ)にいくつか種類があるのはご存知でしょう。

よくある図をパワポで作ってみました。

真ん中の「B」カーヴなら、そりゃーvolumeゼロから全開までスムーズに変化して重畳だんべとなるのが人情ですが、実は一般的にストラトに使われるのは緑色の「A」カーヴなのです。
そう、Aの方が、音量の変化が不思議とスムーズなんですね。抵抗値がポットの回転に正比例して増加するBより。
ここなんですねー、人と電気の分かり得ないところって。ボーマン船長とHALが分かり合えないのも至極です。

さて、話が宇宙に飛びそうなので、んじゃ地上じゃどうするかといったらもうお分かりですね。
せっかくの図があるのでこれを使っていきましょう。

前回のブログで、「ジミの気持ち」になるには、「鏡の国のとしや」になればイイんだと、ギターのコントロール部の写真を左右反転させて、ノブを回す感じをイメージしましたね。
んじゃ、この図も反転させましょう。



こうなりますよね。
しかし、一生を鏡の国で送るのはファンタジーとしてはありでも、実際のアンティグアストラトはこっちの現実世界にあるわけですから、ひっくり返っちゃった時空をなんとかせねばなりませんね。
ならば大前提である座標軸を現実世界に合わせつつ、鏡の国のAカーヴをこの世に召喚するには、如何なるエコエコアザラクをもってして行うべきか!
*魔術やら錬金術の根っこってこういうことなんでしょうね。


はい、出来ました!

「ムゥウ」
海原雄山の唸り声が聞こえてきそうですが、先の反転図(鏡の国モード)をそのまんまで座標軸を現世に合わせるなら別にコレでインじゃん?これこそコペルニクス的転換よ(違うか?)。

ということで、最初の図と見比べてみれば、「C」カーヴを使えば良いという結論でした。

「もうお分かりですね」の後に、もっとまともな理論が続くかと思っていた方は、ご自分で関数やら電気の話を調べてください。わたくしめっぽう興味がありませんので。
先の思考パタンでさっさと進めて早く音出したいので続けます。

で、そのように都合の良い「Cカーヴ」ポットというものが売っているのかといえばこれがあるんですねぇ。
例の逆配列ノブより簡単に(しかも国内で)見つけられました。


でも、1箇所から一遍に買えなかったのでパッケージが違いますが、中身は一緒です。
パッケージはALL PARTSだろうがモントルーだろうが、CTS社製250kΩ Cカーヴポットということです。
シャフトの高さはストラト用のvintage styleというやつで、底にはおヘソのあるタイプね。


相変わらずキレイなハンダ付じゃありませんが、通常と左右逆の端子に配線されているのがお分かりですか?

コンデンサーやぶっといアースケーブルに隠れていて少々わかりづらいですね。スミマセン。
それと、これも分かりづらいかもしれませんが、toneは真ん中のポットがネック側とセンター、volumeと反対側のポットはブリッジピックアップ用のtoneという配線になっています。
なぜか?
そりゃーブリッジピックアップのtoneは使い様ということです。
レスポールでもストラトでも。
基本の音はもちろんそうですが、これこそどんだけステキな中音域が活かせるかが、チョイスしたコンデンサーの妙味によるところということです。
で、めでたくポットのカーヴも実用的になり、余は満足じゃという次第。

あっさり終わるねぇ。じゃブログのタイトル、何が「逆もまた真なり」なの?

では行きますか。

わざわざ左利き用のストラトを右利きの人が使うって、カッコだけで不便なばかりなんじゃないの?
というご意見が一般的なんでしょう。
確かにギターを構えた時に、コントロール類が通常と違って弦の上に来る事がかえって扱いやすいとは私も思いません。

でも、一番イメージされる使いづらさって、こういう事なんじゃないですか?


コントロール類の扱いやすさよりも何も、ノブが手首や手のひらに当たっちゃうじゃん?しかもアームまで生えてるし。
というもの。

ハハァそこですか。
某ストラト専門店のサイトにも、「右利きの人がレフティのストラトを買っても、しばらくすると大抵手放してしまう。」という記述があったのを覚えています。
その大きな要因ってこれですかね?
レフティ構えたらカッコいいべ!とばかりに買ってみたら挽き肉、あ、いや弾きにくかった...

手のひらや手首をボディやブリッジに乗せて弾くのやめません?


これが私のいつも弾いてる図です。

レフティのストラトを手に入れるずーっと前から、手首を浮かさないとやっぱダメじゃん?ということに気づいて以来実践してます。

じゃミュートするときは?


やけに手がシワシワに写ってますが、別に無理も何もしてませんしフツーに出来ますよ。
指の甲や手の甲は光の加減で、実物はもっとスベスベしてますので悪しからず。


この写真だとそうは見えないかもしれませんが、ジミの気持ちっていっても、ジミヘンほど手首浮かせてませんしね。
ありゃ手がデカいからか?
でも違和感あります?

手首をどうしてもボディやブリッジに乗せちゃうんだよね、なんて人は、一度弾いてみると面白いかもしれませんよ。
レフティだと乗せられませんから。
手首浮かせることによってピッキングの幅も広がるし、なにせ余計な力入れずに弾けますからね。
逆もまた真なりということです。ドデショ?
まぁ、あくまでも私個人の意見ですから。

このブログをアップした後に、1弦側のボディのツノにストラップピンの穴が開けられた左用ストラトが中古市場に溢れ出しても責任は負いません。

と、ここで写真をタップ(クリック)し拡大して、ある違和感というか、こう思った方もいるかも。

「え?リッチーピックなの?」

リッチーブラックモア氏はこのブログによく登場しますが、私自身あの人のフリークということでもなく、70年代のliveしか観聴きしませんが、あの時代の音へのこだわりが強い人には習うところあるということです。

で、この5角形の鼈甲ピックは、それこそ大昔(70年代末)に初めて大枚叩いて買ったとき、「何チュー弦離れが良く弾きやすいピックじゃ!」と思ったことを覚えています。
では、なんでそのまま使い続けなかったかというと、何か禁断の果実を手にした様な臆病風に吹かれた気がしたのも確かです。
そして、近年また手にする様になって、『なんだ、これでインじゃん。全て解決じゃん!』となったという次第です。

あとは何でしょね。

 「何だね君!そのピックの持ち方は‼ 人差し指も親指も第1関節付近でホールドしなければイカンではないかっ‼」

ですかね?
それこそ、手首固定に比べればどーだっていいことだと思います。ピックの持ち方なんて。
もっと言うなら、先の「」の持ち方をして、さらに、矢鱈と親指の第一関節と人差し指の第二関節を必要以上にクネクネさせて、あたかもピックに印刷されているブランド名を指の腹の感触だけで読み取っているかの如く弾いてる人っていますよね、YouTubeとか見てると。
あれって多分、メソッドとして学校で習ったんでしょね。で、それを頑なに行っていると。

個人的な意見ですからね。

じゃ、こういうのはどーでしょ?


「またリッチー?」

まぁ良いじゃないですか。
当時TV番組になってたヒューヘフナーのプレイボーイマンションの嘘くさいダンサーと嘘くさいセットの前で第一期ディープパープル演奏するの図です。
1:51あたりからマタリッチーならぬ若リッチーが、ヒューヘフナーにギターの手ほどきをしていますが、中指薬指とコードのポジションを教えた後に、ハイ!ここ大事とばかりに、親指をネックの表(指板側)に出させるというもの。

ルートを押さえさせてるんでしょ?

それもあると思うのですが、それだけでしょうか?
YouTubeで散見される腕自慢のギター弾きの皆さんって、極力親指をネックの裏側に当てて弾いてません?
あれも多分ガッコで習ったんですよね?しておかげでスムーズなフィンガリングで早弾きもお手の物。
まぁ、大抵ぐっちゃぐちゃに歪んでるんですけどね。あれじゃボディの鳴りがとかネックだジョイントだとかそれこそどーでもいい世界ですね。

若干〇〇才の天才ギタリスト!とかいって超絶テクニックやミスのないプレイでパワフルなピッキング一辺倒な演奏をしてみたり...
違和感感じません?
あれを音楽と言うなら、ルーリードの「メタルマシーンミュージック」の方がよっぽど音楽的ですよ。
「メタルマシーンミュージック」といえば町田康の小説にも出てきて映画化の際には、藤圭子の唄とメタルマシーンミュージックを同時に爆音で映画館でそれこそ公衆の面前でアンプリファイドするなんて!と期待したのですが、何故に小説通りにやらないんでしょね?ハイライトなのに。これも違和感ですね。
 

よく夏場になるとやっていたTV番組で「心霊特番」みたいのがあると、必ず出てくるのが「悪魔祓い師」のコーナー。
世界中の悪魔払い師と、アクター、あ、いや悪魔に取り憑かれた人が出てきてどうこうというやつ。あれが始まると大抵「さ、トイレ行っとこか」とか、「お酒とアテ作ろか」となって観ないんですけど、もっと以前は、悪魔払いより「心霊手術」がよく紹介されていました。
その中で今でも覚えていて、もう一度ぜひ観たいのが、東南アジアのどこかの国の施術師が、その心霊手術を行う真っ最中に、見るからに手作りのヘッドセット、もっと言うと耳の辺りから口元に伸びているヘッドセットのマイク部らしき棒状のものに何かを囁きかけ、それに対する宇宙との交信、返答を耳かテレパシーで受信しながら心霊手術を行うというもの。

その頃すでに、いい加減「心霊手術」なんてもんはインチキで、お腹のダブついた患者の何段腹かにグーにした手を突っ込んで、手の中で血糊や摘出したと思わせる病巣らしきものやクギなんかを見せる算段だってなぁこちとらお見通しなんでい!なんて言われてた頃ですから、今までの通り一遍な心霊手術では日本のテレビ局からギャラは取れぬと、苦心惨憺の末の思いつきであったとしても、そのパフォーマンスが是非もう一度観たいと思わせるものであったのは、あの人の思い付きが大変素晴らしかったということです。

というわけで、後半は私自身が感じている違和感について、YouTubeの視聴はほぼ日課な私がこんなご時世なので、もういい加減違和感を違和感として感じていることを意識しましょうということを、あくまでも個人的な意見として書きました。

次回はそういう私がそんな違和感な世界から身近な「まとも」を実感できることをひしひしと感じているレコードのお話をしましょう。


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