塗ってる真っ最中
乾かしてる真っ最中。ピックガード側のカーヴがお解り?
ほれならこれでは?
横向き御免。組上完成図
別にわたくしめはジョージハリスンやエリッククラプトンのマニアでも何でもなく、ジミーペイジとっつぁんの3番とかに似せるつもりもなかったのですが、調色とかせずに手軽にできるシースルーカラーでうっすら出ている虎杢が生かせるのってことでこの色に。
着色自体はホントにイージーに出来て大した量も使わず。バインディング上の色を削り落とす際に初めてゆえ結構失敗してその近辺だけまた吹いたりしましたが、色むらにはならずほっと一安心でした。
トップコートのクリアはいつもの神東スプレーで。
この写真だとピックガードと反対側のカーヴがお解り?
先日、かのストラディバリウスの番組というのをやっていたそうで、その音色の秘密の要因として、ボディのカーヴドトップが挙げられていたとか。
つってもこのにわかカーヴドトップが、50's Les Paulのアーチのごときディープで優美なものとは比較できるレベルではもちろんなく、しかし、『アーチ』というより『スラント』と言った趣の70年代後半Les Paulに比べれば随分色っぽくなったのでは?なんて見た目では結構満足レベル。
では音は?
この少しだけカーヴド(アーチド)となったメイプルトップがどれほど音に違いを生んだかなんて聴き取れるレベルではありませんでしょうが、相変わらずの抜けが良く、しっかりGIBSONの音がまとまって出ている感は、レスポール史においてのこの時期(メイプルネック)のその評価の低さに反する事実、知られざるものと言えましょうか。
しっかしっかし、50年代Les Paulのあのソリッドな生鳴り
→アンプを通してみるとなんとまぁ分離の良い音
→イヤン、ヘッタッピがバレちゃうっ!
というあの音とはやはり別物です。
ちなみに動画サイトなんかでたまに遭遇する、いかにものレプリカと本ものバーストの比較演奏なんかで歴然としてしまうのがこの最大のポイントです。当時のマホガニーは材の質が違うから?ホントにそこが原因でしょうか?
80年代以降のリイッシューやら何やらで何だかなぁと違和感を抱いた音ってここの違いなんですよね。
んならば、固いメイプルネックって案外アリなんじゃん?
以前も書きましたが、ある意味進化(メタモルフォーゼ)したのが70年代後半のレスポールなんでは?
このレスポールを手に入れたのはそんな着想だったのですが、やはり50年代のものとは別物とは言え、80年代以降のものとは明らかに何か違うというか、何かが残っている音と感じてしまうのは私だけでしょうか?
難を言えば、50'sと比べればダイナミックレンジがどうしてもメイプルネックの70'sは狭いですな。
ピッキングの強弱に対する比例度が明らかに違います。良く言われる『固い音』と言えばそうかも知れませんが、50年代のマホガニーネックは軟らかいとか甘い音とかいう表現はちょっと事実とは違うんじゃないか?
『レンジの広い音』という言い方が当てはまるんじゃないか?そうっしょ?
これはGIBSONのマホガニーネックのアコギを弾いても感じる事ですね。やっぱマホガニーの質?
おいおい、オメー、ラブとしやだか秩父音頭だか知らねェが、黙って聞いてりゃ随分とレスポールのオリジナルだとか50年代はスゲーだとかミッドセンチュリーとか解ってる様な事言ってるじゃねェの?
それってオメーの勝手な想像ぢゃネェの?ノットエクスペリエンスドなくせに何は無くともヴィンテージ!な。
とうとうそういわれる日が来てしまいましたね。
では、私めが貧乏暇なしのこのうらぶれた身の上にもかかわらず、自分のギター人生に光明を見い出せたギターをご紹介しましょう。
1952年製 GIBSON LES PAUL STANDARDです。
もちろん初年度のLes Paulといえば、トラピーズブリッジのP-90ピックアップですが、高さがギリで稼げたのをイイ事にラップアラウンドテイルピースに、そしてピックアップはステッカーナンバードT-TOPに改造しています。
ネジ1本からハンダ付けまでオールオリジナルであったこのギターの市場価値は、この私の暴挙(といってもちゃんとした工房に依頼)によって暴落していまいましたが、しかしおかげで『50年代レスポールの何が凄いのか』、そもそも50年代初頭当時誰も聴いたことのない『どんな音を紡ぎ出す為に生まれたギターなのか』が良〜っっっく解りました、骨身にシミました。
『あ、そゆことなのね!』
と、今までアレやこれや想像したり実験したりして来た事がいっぺんにストンと腑に落ちました。
まさに我が理論、
『全てのエポックメイキングな事象は、それが生まれた時に最大のポテンシャルを有する』
が証明できたのじゃ、ぬぁ〜っしゃっしゃ!
と、この52年を手に入れた時には勝手に一人喜んだものです。
旧ブログでは初めて買ったトーカイのレスポールなんてのも紹介しましたが、結局レスポールに帰結してしまいましたな。
チェリーもまさにチェリー一色になって、何やら新しい春が来た様な気分。
ああなんと落ち着いた清々しい心持ちなのでしょう。
では、なぜにそんなに清々しい気持ちに至れたか、そのお話を少しいたしましょう。
世阿弥の生まれ変わりと言われた能楽シテ方、観世寿夫さんによると、『初心に帰る』とは世阿弥の伝えたかった事とはかなり違ったものであり、『初心』は帰る、戻るものではなくて、あの時の気持ち、すなわち拙く、どぎまぎしたりした頃を忘れてはならない、『初心忘るべからず』が正解。
しかし、いくら拙く幼くとも、特に私の世代ですと後追いとは言えまだなんとか70年代であったわけですから、初めて出会って感銘を受けた音楽のほとんど=60年代末から70年代前半の黄金期のものがまだ冷めやらぬ熱を持ってあふれていた頃で、たとえば楽器であれば『ヴィンテイジ』がもろに現役で活躍していた時代のもの。
何の知識も無い幼い頃ではありますが、その感銘、インパクトは心にしっかり刻まれているわけです。
その後知識を付けて行くにつれ、はは〜ん、あの楽器の凄いところってコレコレなところ、ならば今手に入るもので工夫できるかもとか、その凄いところを再現したパーツが出るらしいぜとか、興味の矛先には不自由しなくなります。
また、これは21世紀になってより顕著ですが、その頃の音楽の記録である音楽、映像メディア(レコード、CD、ビデオ、DVD....)もその後の格好の『リイシュー』のソースでありますから、新機軸な方法で『あの感動をもういちど』と、『リイシュー』を繰り返して現れます。
『チミの趣味は何だね?』
と訊かれた場合の答えはたいていこの辺のことで説明がつくし、自分自身も楽しいわけで、コレクションの様なものも増えて行きます。
そして楽器でもメディアでも、『ほぉ、なるほどね』とか『ああ確かに』とかその都度感心したりして、そのリイシューの『技術』の仕組みまでは解らずとも、目や耳が鍛えられるというか、経験を積んで行くわけですな。
しかし、なかなか『あっ!そっか〜!!』と納得できるものや、まさに「目から鱗が落ちる」の様な体験、何かがビシビシッと繫がった様な感覚を覚える様な体験はごくまれです。
10年にいっぺんとか。
その例えば10年にいっぺんでも、ビシビシッとなる感覚は何故起きるかと言うと、拙く幼くとも心に感銘を受けたインパクトがしっかり心に刻まれたところに繫がって行くのでしょう。
言って見ればこれもまた『初心』ですね。
つまり、そのポイントに触れそうであろう期待を込めて、現れた事象に対価を払ったりする。
でもまたそこにさらに着目してしまう自分とは、その事象の『そもそも』にある凄さを、意識の深〜いところか脳ミソのどこかしらかでラブを持って見つめていたからであって、もっと簡単に言えば、今回の買い物では上手く行かなかったけれど、いつか満足できるんじゃないか?早くたどり着きたいな、といったラブ心情、消える事なき情熱のなせる業なのです。
実のところをいうと、そこでは『○○技術で』とか『ブラインドテストで』『プロの誰々が』『フラッグシップ』だとかの広告コピー、またこれだけの技術を駆使しているのだからと言う理屈にいちいち納得しても『ビシビシッと何かが繫がる』事って皆無だったりします。
確かに様々な体験や知識の積み重ねで自分自身の耳が目が鍛えられたというのも事実ですが、最終的に判断する、判断するというより、感覚がとらえる事が出来たのは、やはり『初心』によるところなのでしょう。
イカ墨のパスタって皆さん好きですか?
私は初めて食べたレストランで衝撃を受けて以来大好物となり、スーパーなり食材屋に行っちゃレトルトの『イカ墨パスタ』ソースや缶詰の『イカ墨ソースのもと』を買い込み自宅でも食していたわけです。
しかし、初めて食べた時の感動(おいしさ、風味etc.)に追いつく事は決してありませんでした。
確かもっとにんにくと唐辛子の風味が強くてそれがまたイカ墨の風味とマッチして良いポイントだったよなと、オリーブオイルでかなり多めににんにくと鷹の爪を風味出ししたフライパンにレトルトのソースを合わせたりしましたが、不思議と両者が引き立ちません。
しかも、調理後や食後、フライパンやお皿に付いたソースからはすぐにイヤなにおいがしてきます。
ん?何だおかしいぞ?
ならば缶詰の『イカ墨ソースのもと』とイカを買って来て調理しても??
そういえばレトルトのうたい文句に「赤ワイン」使用なんてのもあったからやってみたけど???
ちょっと待てよ、『そもそも』イカ墨のパスタってどうやって作ってたんだ?
そりゃ獲れたイカを墨もろとも炒めたソースって事でしょ?もちろんにんにく鷹の爪はベースでしょうし、トマトも少し入れるかも知れん。スミイカ(コウイカ)ならドバドバ墨出るしね。
ということで、小さくても多少墨の出る『ひいか』にポレンギのイカスミペースト(原材料:イカ墨、塩。以上)なるもので墨を補い調理したところ、まさに『ビシビシッと』繫がったわけです。
イカ墨の風味はもちろん、にんにく、鷹の爪も普通の量でしっかり風味が付きます。
何だそういうう事か!
ごくたまに新鮮なコウイカが手に入ったときなんて、ペースト無しでまっ黒けっけのパスタが完成する事もあります。
ちなみにその最初に食べたレストランも、別に予約半年待ちとかいう高級店でも何でも無く私ら庶民でも気軽に行けるところです。しかもその後訪れた事はありません。
これって、先ほどチラッと書いた
『全てのエポックメイキングな事象は、それが生まれた時に最大のポテンシャルを有する』
ですねまさに。
レスポールの神髄たる50年代ものというと、58~60年のバーストをじっくり味わうことなくしてその至高の美は実感なぞ出来ぬ。それがこの格差社会よ!
というステレオタイプの意見に帰結してしまいがちですが、そこで私が注目したのが、『そもそも』レスポールが生まれた時点のもの、つまり初年度の'52年モデル。
その後のバースト期に向けて進化して行くブリッジやピックアップ等の違いこそあれ、このモデルには『レスポールの何たるかのポテンシャル』が詰まっているのではないか?
それが見事に的中したのですな。自分的には。
良くいわれるレスポールの代名詞、『バリトラ』『サンバースト』には頓着しない私の嗜好も丁度良かったのかも。
ところで、観世寿夫さんが武満徹のテープコラージュに合わせて舞った『水の曲』の映像って残ってないのかしら?
最後にもちょっとだけオサスィンを。
先日紹介したThroBakのニッケルカヴァーも、これに付けてますのよ。バンブルビーもね。
コメント
ええものを見せていただきました。
バーテイルのレスポールは
やはりグッドルッキンです。かっこいい!!